日曜日、30分だけ父とマリオ
それがはじまりでした。
当時の僕は6歳くらいの子どもで、日曜日に30分だけ遊ばせてもらえるファミコンが大好きでした。スーパーマリオブラザーズ3で遊んでいた記憶が強く残っています。しかし就学前後の子どもには簡単ではなく、すぐにマリオはやられてしまいました。
そんな僕と一緒にファミコンで遊んでくれたのが父でした。
父は、今思い返すとアクションゲームはあまり得意でなかったですが、それでも僕よりはるかに上手でした。海のステージを溺れずに進んだり、迷路のステージを迷わずにゴールしたり、どこまでも追いかけてくる太陽を甲羅でやっつけたりする姿は、非常にかっこよかったです。
そんな僕は、すっかりコンピュータゲームの魅力にとりつかれていきました。
当然、夢はゲームクリエイター
アクションゲームは得意でなく、その後はRPGが好きになっていきました。父もRPGが好きで、特にドラゴンクエストシリーズをプレイしていた印象が強いです。あまりゲームをプレイさせてもらえなかった僕は、父が買った攻略本を読むことが楽しみでした。スライムのドット絵をノートに模写してニヤニヤしていました。
そんな僕の将来の夢は、ゲームクリエイター。小学校を卒業するころには、はっきりその夢を認識していました。小学校の卒業文集で将来の夢を書くときも、当然「ゲームを作る人」と書こうと思いました。
しかし「ゲームを作る人」と書くのがなんだか恥ずかしかった僕は、「コンピュータ会社の社長」とボカして書きました。ゲーム制作会社とコンピュータ会社は別ものだし、社長ともなると経営者であってクリエイターではなくなりそうですが。
親にも、はっきりとゲームクリエイターになりたいと伝えたことは無かったと思います。「普通の人生」とは違う気がして、言うことに気が引けていたのです。
今では子どもの夢ランキングのTOP10にランクインしているのですから、堂々とゲームクリエイターになるのが夢だと言えそうですね。
ゲームクリエイター=プログラマ
小学生
ゲームをつくるということは、プログラミングをすることだと思っていました。
そこで、父の持ち物だったSHARP製ポケットコンピュータで、BASICというプログラミング言語の勉強をしました。
小学生の僕の先生は父で、変数の扱い方、画面への表示の仕方、乱数の使い方などを教わったことを憶えています。特に乱数はゲームづくりには重要で、戦いのときのダメージにばらつきを持たせることができます。乱数という仕組みでゲームができていることを知り、とてもワクワクしたことを憶えています。
そんな乱数を操ることができる父は、とても頼もしかったものでした。
中学生
中学2年生のとき、それまで(親が)貯めて(くれて)いたお年玉をすべて使い、パソコンを買いました。ゲームをプレイすることも多かったですが、ゲームづくりのためプログラミングへ本格的に入門しました。
Delphiという、今ではマイナーなプログラミング言語を勉強することになったのは、もちろん父の影響でした。父は、本業ではないものの仕事でPCソフトを作ることがあり、経理ソフト(か、在庫管理ソフト)や、会社のイベント用に福引ソフトなどを作っていました。そのプログラミング言語がDelphiだったのです。
しかし天才ハッカーでない僕にとってプログラミングは非常に難しく、父に教えを乞うては理解ができずむずがゆい思いをしていました。中学生の僕は反抗期の真っ只中で、親に頼ることなどしたくなかったのですが、それでもプログラミングの先生として父に一目置いていました。
週末に、父に本屋へ連れていってもらい、プログラミングの専門書を探し回ることが、当時のとっておきな楽しみのひとつでした。
高専生
ロボコンに惹かれて入学した高専(高等専門学校)でしたが、結局ロボコンはすぐに辞めてしまい、その代わりにゲームづくりへとのめり込みました。
あまり大きな声では言えないですが、授業中には「創作ノート」を常に広げ、思いついたゲーム制作のネタを書き留めていました。
2000年初頭は、インターネットが普及すると共にフリーゲームが全盛期を迎えていました。僕も、RPGの制作と、ブラウザゲームの制作・運営をしていました。webアプリケーションの基礎は、このとき学びました。
プログラマでもゲームクリエイターでもなく
大学生・大学院生
高専から大学3年生へと編入学し、4年生で研究室へ入ったときに、人生のターニングポイントがやってきました。研究が楽しくて楽しくてしょうがなかったのです。
自分の時間は、ほとんどをゲームプレイか、研究のどちらかに使っていました。研究ではプログラミングを行うことが多く、それまでに積み上げたプログラミングのスキルが大活躍しました。研究以外にも、宅配弁当屋への注文を集めて自動発注するwebシステムを作ったりと、高専在学中に得たスキルを大いに活用していました。
やがて就職活動となり、はじめはゲームクリエイター志望で制作会社のセミナーに参加していました。しかし、かつて思い描いていたゲームクリエイター像とは異なり、個人ではなく会社あるいは組織として開発を行う時代だということを思い知り、断念しました。
そこで、もはやライフワークになりかけていた研究を続けることを志望しました。
大学時代の父
高専生・大学生のとき、気持ちとしては親離れしていて、もはや一人で生きていけると強気になっていました。実際には、学費・一人暮らしの家具・家賃・仕送りなど親無しで生きていくことは不可能だったというのに、冷たいものです。
思い出といえば、僕がスクーターを実家近くで買ったとき、僕の一人暮らしの家まで3~4時間かけて父が乗って持ってきてくれたことがありました。僕が初めてのバイクで長旅をするのは危険だと、肩代わりしてくれたのでしょう。父はまだまだピンピンしていました。
社会人となり父となった
社会人
社会人となり、上京して、名実ともに親離れしました。
父は大病を何度も患い、かつてのようなピンピンではなくなりました。僕のほうがとっくに体力は上ですし、ゲームのプレイスキルもプログラミングのスキルも、もしかしたら父を超えているかもしれません。
父は同じゲームを何度もプレイすることがあり、大昔にクリアしたはずのドラゴンクエスト5を繰り返しプレイしている姿を見て、少し切なくなったこともありました。
父の背中
しかしそんな父は、65歳を過ぎてもラズベリーパイで遊び、Unityを学び、作曲も学び始めた、なんて言っています。心はピンピンですね。
30歳を過ぎた僕はというと、ラズベリーパイで自宅の見守りシステムをつくったり、JavaScriptでゲームづくりを再開したり、webページを開設したりしています。
職場での僕は、何でも屋の側面があり、本業とはちょっと違うソフトを作ることも多いです。
本業ではないものの仕事でPCソフトを作っていた父。何でも屋の僕。僕はいつの間にか、父のような大人になっていることに気が付きました。
父としての背中
僕は近頃、こんなふうに思い出を振り返ることが多くなりました。それは、僕自身が父となったからだと思います。
2人の小さな子どもと接していると、常々思うことがあります。それは、子どもが夢を持って育ってほしい、自立できる心と技術を身につけてほしい、ということです。なぜなら、僕自身が、そうできたから今があるのであり、僕は今の僕がけっこう好きだからです。
子どもが夢を持って育ってほしいと想うたび、僕は僕の父の背中を思い出すのです。
僕が夢を持ったまま大人に育ち、自立することができた歩みを振り返ると、父の存在をとても大きく感じます。
子どもは親の背中を見て育つ。
今度は僕が、背中を見せる番。
これからも夢は続く
父となった僕には今、父がドラゴンクエスト5を何度もプレイしていた理由が分かる気がします。ドラゴンクエスト5は、父親から子へと想いが繋がる物語だからです。小学生当時の僕は、子である主人公の目線で、自分自身が成長する物語として捉えていましたが、今は違います。今プレイしたら、父親の目線で、子である主人公が成長し、結婚して孫が生まれ、仲間と共に人生を歩む物語として捉えるに違いありません。
自分の子どもの未来を想わない親はいません。そのことが、今ようやく分かりました。
そして自分自身もまた、いつまでも未来を夢見ていたいと思います。70歳になっても、80歳になっても、90歳になっても、その時代の新しいことを「やってみたんだけどね」と子どもに話せるおじいちゃんになりたいです。
この投稿について
本日、70歳の古希を迎えた父への感謝を込めて、投稿します。
お父さん、ありがとう。健康に気を付けて長生きしてください。